鈴木元会長の鈴木修氏がご逝去されました

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241227/k10014679191000.html

自動車メーカー、スズキの元会長で40年以上にわたって経営を担い、世界的なメーカーに成長させた鈴木修氏が12月25日、亡くなりました。94歳でした。

先日のブログで、インド元首相のマンモハン・シンさんのご逝去を伝えましたが(インド前首相逝去の報に想う) 、今回はインドのスズキ自動車を大きく飛躍させた鈴木修氏について、私の個人的な想いを伝えます。

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2007年に自動車会社の駐在員として4年間インドで過ごしましたが、当時のスズキ車のシェアーは大きく、どこに行っても日本のスズキアルトを見たものです。

なぜスズキはインドで高いシェアーを取れているのか(現在でも高いシェアーです)。

スズキがインドに進出した背景には、自動車産業を発展させたいインド政府の強い後押しがありました。

インドが自動車産業を本格的に始めたきっかけは、1970年代の経済政策と政治的背景にあります。

当時、インドは外貨不足と産業基盤の弱さに直面しており、低価格で信頼性の高い自動車の国産化が求められていました。この中で注目されたのがサンジャイ・ガンジーの存在です。首相インディラ・ガンジーの息子であった彼は、庶民向けの「国民車」構想を掲げ、1971年にマルチ・ウドヨグを設立。

しかし技術と資金の不足から進展せず、1980年に彼が急逝すると状況が変わります。

インド政府は日本の自動車会社にインド進出を依頼しますが、1980年代の日本の自動車産業はアメリカ進出を計画していました。

各社は、ホンダが1982年、日産が1983年、トヨタが1986年にGMと合弁会社、1988年に独資でアメリカ進出を決めました。

当時のスズキはアメリカではなく、他国への進出を考えていました。
その時インディラ・ガンジー政権からの声掛けがあり、インド市場に目を付けた(当時)鈴木社長がインド政府との交渉に名乗りをあげ、1981年に合弁会社「マルチ・スズキ」が誕生。
これがインドの自動車産業発展の礎と同時に、現在のスズキのインド市場における大躍進となりました。

私が初めてインド訪問したのは、1997年です。今から約30年前です。当時の印象として、「生活するには、少々厳しい環境だな」です。

食事面では、基本はホテルにあるレストランで中華とイタリアン(風)、ホテル以外ではマクドナルドのみがありました。チキンとマトンのバーガーにはホッとした記憶があります。

交通事情は、いつでもどこでも渋滞しており、道路では人・牛・バイク・自動車が混在している状況でした。

その10年後・2007年に再びインド駐在となりましたが、1997年比較ではかなり生活面は改善されました。
しかし、日本比較ではまだ大きな差がありました。

個人的には、不便を楽しむ? ほどの余裕はありませんでしたが、でもそれなりに「思い出深い日々」でした。

私の初インドの16年前、初駐在から26年前にインドで合弁会社を立ち上げて、生産・販売をリードした当時の鈴木修氏とインド駐在員はどんなご苦労をされたのか? と思うと、本当に頭が下がります。

現在、インドのスズキは、2002年にスズキが出資比率を過半数の54%に引き上げ、子会社化しました。
さらに 2023年10月時点で、スズキが58.2%の株式を保有しています。 インドのマルチ・スズキのマネジメントメンバーには優秀なインド人が集まっており、長年インドにおいて、すべてにおいて現地化を進めてきたスズキの強さを感じています。

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