対話が続く人はここが違う――『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』に学ぶ言葉の力
朝日新聞に著者の朱さんのインタビュー記事があり、「<公正(フェアネス)>を乗りこなす」についての説明が載っていました。
「正義」「公正」。わかるようで、ではそれぞれの定義は?と問われれば・・・、考えても明確な説明はできないでしょう。なぜならそれを真剣に考えたことがないからです。

<公正(フェアネス)>を乗りこなす
朱喜哲 著
読後ですが、「正義」「公正」についてブログで書くには、少々理解不足だな・・という状況です。しかし、「対話を継続する」という内容は、コミュニケーションに興味を持っている私には多くの頷きポイントがありましたので、ここでは「対話」を中心に説明します。
はじめに:「正しさ」で人を黙らせていませんか?
「これが正しい」「あなたは間違っている」
コミュニケーションの中で、そんなふうに断定してしまった経験はありませんか?
あるいは、誰かにそう言われて、話す気がなくなったことは?
人は誰でもバイアス(思い込み)を持っています。
生まれた場所、育った環境、学校でも学びにより、バイアスがあります。
例えば、正月の雑煮では、関東の澄まし汁+焼いた角餅、に対して、関西の白味噌と焼かない丸餅、また各地や家庭でそれぞれの雑煮があります。
家庭内では、その雑煮が「正」でありながらも、他の異なった雑煮を見ると、「正」ではない、と感じ、正しい、間違っているという言葉が出る傾向が強いです。
よって、私たちは日常の中で、「正しさ」の武器を振りかざしてしまうことがあります。
でも、それが対話を壊し、人間関係を分断することもあるのです。
今回は朱喜哲(チュ・ヒチョル)さんの著書『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』から、対話を続けるためのヒントを学びます。
対話を止める「正義の言葉」
この本は、「正義」や「公正」という言葉が、人を救うどころか、排除する力にもなってしまう現実を指摘します。
たとえば教育現場で「正しくあれ」と教えられた子どもたちは、やがて「自分が正しい」と思ったとき、異なる意見を受け入れにくくなります。
結果として、「あなたは間違っている」「常識でしょ」と言葉で相手を攻撃し、会話が止まってしまうのです。
「はい論破」は、ディベートや議論の場で自分の主張が正しいことを主張する「決めセリフ」です。議論によって相手の理屈を立ち行かなくさせます。このセリフも会話を止める言葉となります。
朱さんは言います。「正義の反対は不正ではなく、別の正義だ」と。
会話をつなぐローティの知恵
この本で紹介されるアメリカの哲学者リチャード・ローティは、「正しさよりも、会話を続けることが大事だ」と語ります。
彼が提案したのは、「会話中心の社会」――
真理をひとつに決めるのではなく、「どう思う?」「なぜそう感じた?」と問いかけ続ける社会です。
私たちが目指すべきは、論破することではなく、相手の話を「もう少し聞きたい」と思える関係。
沈黙ではなく、問いが返ってくる空間です。 コミュニケーションの基本は相手に興味を持つこと、と言われます。興味があれば、会話は続けることが出来ます。
「共に問う」ことの意味
対話が続く人は、「答え」を急がず、「問い」を共有します。
「それってどういう意味?」「もう少し教えて」――こうした姿勢は、正しさを押し付けるのではなく、「正しさを一緒に探す」態度です。
朱さんは、正義を「主張」するものから「問い続ける」ものに変える必要があると強調します。
そして、「公正」とは、誰かが話せない状況を無くし、声の届く仕組みを整えることだ、とも。
つまり、公正なコミュニケーションとは、「誰が話し、誰が話せていないか」に気づきながら、会話を継続する力なのです。
おわりに:対話の技術としての公正
私たちが「コミュニケーションをうまく取れるようになりたい」と思ったとき、多くの人は「話し方」や「伝え方」のテクニックを学びます。
でも本当に大切なのは、「聞き方」や「問いかけ方」、そして「相手と一緒に考える力」かもしれません。
『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』は、そうした「関係をつなぐ力」を育ててくれる一冊です。
自分の正しさを証明するためではなく、対話を続けるために、ことばを使う――
それは直ぐできる! という簡単なことではないですが、対話をつづける、という姿勢が対話をつづける第一歩となる、と確信しています。